教育

キリスト教と落語

 

おはようございます。

 

先日、田園調布雙葉小学校ではプール開きがありました。

コロナ渦以降入学の学年は学校のプールが初めてで、今から楽しみにしているようです。色々な生物がいたであろうプールは、今はきらきらと水面が輝いています。学年カラーの帽子、指定のネイビーのスクール水着とラッシュを着るのが校内では一般的なスタイルです。

 

 

さて、話は変わりますが、娘は学校で本をよく借りてきます。(ちゃんと全部読むかは別なのですが)

 

整然と本と机が並んでいるというより、程よい間隔で色々なサイズの椅子がぽんぽんと並んでいて、トンネルのようなアーチがあったり、年齢が違っても楽しくつい寄ってみたくなるような工夫がされています。

 

また、一人ずつに発行されている銀行の通帳のような図書手帳があり、借りた本はその手帳に記帳されます。学校で借りてくる本は全て娘に管理をさせているのですが、ふと、最近娘がどんな本を好むのか気になりその手帳を見ましたら、落語本ばかりだったのです。笑

 

そこか!?と思いました。

 

落語は特別に私が好きで聞いたりしているわけでもないのですが、幼い頃に読み聞かせていた『じゅげむ』や『饅頭怖い』などの絵本をよくリピートで読んで欲しいとせがまれていたので、落語のエッセンスで惹かれるものがあるのでしょうね。

 

私は落語は全く詳しくは無いのですが、落語の主人公で正義感が強く義勇感に満ち溢れた人間はそうそう現れず、むしろ愚かで、時に誘惑に負け、騙し騙され、ルールを破り、それでも折り合いをつけて逞しく生きていく人間を描き、そうだよなぁと共感をしたり、愚かさを見つめる事で良心の重要性が見えてきたり・・。

 

ある落語家が、「出来なくてもダメでもいいじゃないかそれが人間だ、落語はそんな人間の業を肯定してくれるものだ。」と話していた事を思い出しました。

 

業というと、また輪廻だとか、解放説とかいろいろな考え方が出てきてしまいますが、単純に『人間の業の肯定』という部分だけに注目すると(無秩序や無規範の肯定とは違います)キリスト教の『あるがままで愛されている』にも通ずるものがあるなぁと感じました。

 

日本人て基本的に真面目なので、完璧を目指してしまう、または完璧でないと自分に能力がないのかもしれないと、ベクトルが内側に向いている方が多いそうです。ベクトルを外に発信し、「出来ない」「手伝って」と声に出す事も大切だなと思います。

私はコロナ前までは、家事、育児はほぼ私、加えて仕事もしていたので、パンクしました。

今では堂々と子供たちの前でもダメな母親をさらしています。笑

こうやって皆で成長していくのもよいかと。笑

 

娘が愛読している落語本からの考察でした。

 

 

それでは、よい一日をお過ごしくださいね!