言葉は自己表現 言葉は時として不便

 

おはようございます。

 

先日、娘が学校の菜園で大根を収穫し持ち帰りました。

一本の大根をお友達と半分こにする事になり、どちらが甘味の強い上の方を持ち帰るのか相談したそうです。

出た結果が、縦半分!

スーパーでは見かけない縦半分ですが、よくこの発想にたどり着いたものだと感心しました。笑

おかげで大根をフルに味わえる事になったので、葉は刻んでペペロンチーノの具に、

上の甘味の部分は薄くスライスをしてお鍋に、下の辛味の部分はおろして卵焼きの付け合わせにしました。

普段は野菜嫌いの娘ですが、学校で育てたものだけはなぜか食べてくれるので、食育教育に感謝です。

 

 

後日、『母が大根のそれぞれの部分の美味しい食べ方を工夫して、色々なお料理を作ってくれました!』と、しっかり日記に書いてくれたので、とりあえず母の役割はちゃんと果たしましたー!汗

 

 

さて、この日記ですが、一週間に一つ以上が課題なのですが、出来事のあらすじだけ、感想だけだと、〇がもらえません。

例えば、今回の大根の日記ですが、

・学校の菜園でどんな気持ちで育てたのか(育て方、季節などにも触れる)

・お友達どどんな話し合いでわけたのか

・大根の部位による味の違い

・どんなお料理でどんな味だったのか

など、気持ちや心の動き、理科的な知識、家庭の様子など、詳しく読み手にわかるように徹底的に書き出す事をアドバイスされます。

たかが日記されど日記。娘の文章力がめきめきとあがっている事を感じます。

 

 

前回のブログでも言葉の教育について触れましたが、豊かな日本語を自在に表現できる感性を言葉と共に磨いていく指導に、本当に感謝しています。

 

 

年頃になると乱暴な言葉使いや、世間の流行り言葉をわざと使って親の反応をみたりしましたが(私が)、

きっと娘にもそんな時期が来ると思いますが、言葉を丁寧に扱う気持ちは常に根底にあり、体に馴染んきていると、思います。

(思いたい)

 

 

 

最後に、題名に、『言葉は時として不便』と書きましたが、みなさんにもご経験はありませんか?

この気持ちを言葉にあらわすと、その気持ちを伝えきれず、むしろ霞んでしまうような。

何かにとても感動した時、達成した時、好きな物に夢中になる時、

そんな時はなりふり構わず、言葉なんか無視して全身でそれを表現できるような人に成長して欲しいと、母は願います。

 

 

 

本日はこの辺で。

雪は、まだ降っていませんね(東京)

温かくしてお過ごし下さいね! 良い一日を。